
確かな前進を見届けた
第三回公演『わたしの夢は舞う』
大川達雄
ことしの春は遅かった。四月末、みちのくの角館へ花を見に出かけたのだが、武家屋敷の桜はまだツボミを固くしたまま。周囲の山々も雪なお深く、気象は例年になく不順であった。だが、ピッコロ劇団の歩みばかりは順調そのものだ。
旗揚げ公演の『海を山に』から第二回の『風の中の街』。この間、スタジオ公演『火垂るの墓』や被災地での激励活動、あるいはファミリー劇場『二分間の冒険』などをはさんで、見事なばかりの成長ぶりを示して来た。発足からわずか一年余りとは思えない、急速な進歩であった。そして、第三回公演の『わたしの夢は舞う』もまた、例外ではない。劇団の確かな前進を、しかと見届けた。
第二回の別役実の後を受け、これも清水邦夫の書き下ろし、ピッコロ劇団に当てはめての脚本である。副題に〈會津八−博士の恋〉とある通り、新潟から上京して来た高橋きい子と八一の愛と挫折を、教え子たちとの生活のなかに映し出す。なによりも八一に民藝の鈴木智を配し、他はすべて劇団員に演じさせた分担のほどがいい。年齢だけでなく、師弟関係の上でも自然そのままで、無理がない。当て書きの効力だろう。
以下、舞台の進行とともに振り返ってみると−
昭和七年初夏、東京・下落合の八一宅、秋艸堂を初めて訪れたきい子の、亡母への語りかけてドラマは始まる。この独白は、その後も場面が替わるたびに繰り返され、一種、狂言回しの役割りを負わされるのだが、犬養総理の暗殺や三原山投身自殺、二・二六事件、空襲と動物園での薬殺処分等々、くらい時代相と八一の身辺を簡潔に紹介し、要を得て余すところがない。きい子役の平井久美子も、リンと張ったせりふにおかしみを通わせ、よく起用にこたえた。
一転、教え子集団が登場する。大掃除らしく、若々しいエネルギーを放射する。混乱、混迷ともみえる集団技も、秋浜悟史演出で鮮やかに収拾されて八一のご帰還へ。鈴木八一には「電光石火」と仇名された頑固一徹とともに、ときにメロメロとなる優しさが混在し、終幕へかけて躁うつ症独特の人間像を浮き彫りにした。劇団員ではやはり及ばない造型力だ。むろん、さきの『火垂るの墓』など、若い力だけで立派に創り上げた舞台もある。しかし、前回のパンフレットでも述べたように、ベテランの特別参加は実地教育の得難い場ともなる。他の劇団では望んでも果たせない好機だから、大いに先輩の芸を盗み、身につけることだ。
そういえば、脚本にしても恵まれている。亡霊との会話など、虚と実を透かして八一の心象風景を描く清水の劇文体は強固だし、諧謔味も健在。この亡霊を仲立ちにして、きい子と八一は互いの「ふしぎな甘さ、ふしぎな情熱の火照り」を確認する。きい子はすでに胸を患い、やがて闇と静寂のなか命を絶つのだが、不器用な男と女の、十三年間の愛の始末記は痛切であった。
いつものことながら、スタッフが強力だ。十八の鳥かごを連ねた美術が涼しげだったし、「都の西北」や古賀メロディー、軍歌の歌唱が大正モダニズムと軍国日本の交錯を明らかにした。演者にしいて注文するなら、短歌の朗誦では母音をはっきりさせること、それに胸を悪くしたきい子の発声、息継ぎが強すぎた。いつまた血を吐くかと案じたものだ。
さて、今回は岩松了の『四人姉妹』である。小劇場派作家との初の取り組みといっても、最近は新劇と小劇場の境界があいまいになっており、ピッコロ劇団の俳優にも違和感はあるまい。まして、岩松は”静かな劇”の先達でもあり、八十年代の小劇場とはずいぶん違った世界を提示する。劇団員に戸惑いはないはずだ。むしろ、表現を広げる上で格好の作者にめぐり会った、と思う。成果を期待したい。
〈演劇評論家〉
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